ひびあるく

自閉症スペクトラム小4息子と家族の日々の歩み

家族があたたかい毎日を過ごすこと。


 ☆ちいたん:小3自閉症スペクトラム男子
       通常学級で学んでいます。
 ☆ ぼん :小6兄
 

 

自閉症スペクトラムの人は空気が読めない。」ってよく言われています。

 

だから、ちいたんが空気が読めないことにすごく不安を感じてきましたし。

「空気を読めるように教えていかないと。」と焦ってもいました。

 

ちいたんが最近。

反射的に?少し空気を読んで?動くようになってきて。

 

自分の中で、少し整理しておこうと思うことがあります。

 

 

 

世の中の風潮として。

 

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「空気を読めないこと」って「自分勝手だ。」とか「子どもだ。」と言われたり。

「空気が読めること」って「視野が広い。」とか「大人だ。」と言われがちだと思いますが。

 

 

私は、ちいたんに「空気が読めること」を求めようとすることに、違和感を感じてしまうのです。

 

 

 

ちいたんと小さい頃の私を比べてみました。

 

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小さい頃の私は。

ちいたんとは真逆ぐらいで。

空気しか読めなかったのです・・。

 

その原因と思われる、極端な経験。

少し重く長い話なのですが。

整理のために、ここに書いて、この思いを成仏させたいと思います。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・

 

 

小さい頃、母は私に。

「周囲の人の愚痴や悪口」を言うのが常でした。

 

子どもの小さな世界の中で。

私に関わる全ての人の愚痴や悪口を。

母は私に伝えてきました。

 

その結果、私には。

父、祖父母、姉、その他周囲の人全てに。

「お母さんに何か嫌なことをする人たち」

というフィルターがかかりました。

 

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でも、その愚痴や悪口を言った人の前に実際に立つと、母はいつだって愛想よく笑っていて。

 

そして、振り返って私の方を向いた時に、私だけに苦々しい顔をして舌を出して見せるのです。

 

 

私は母を見て。

「人は裏表があるものなのだ。」

と世界を理解し。

相手が本当はどんな人なのかわからなくなりました。

ねじれて疑心暗鬼になって。

「もしかしたら・・本当はこんなこと考えているんじゃないか・・。」。

勝手に相手の気持ちを推しはかって。

勝手に自分の気持ちを抑えて我慢ばかりして。

「悪口言われないように全部自分で頑張らなきゃ。」

幼いころからそんな風に思っていました。

 

今思えば、家族を含め、相手との関係を誰とも深めることができなかったように思います。

 

反面、相手の動きや顔の表情、言動や、その場の雰囲気をよく捉えることができたので。

「いつも人の喜ぶことを考えて動ける優しいいい子」として先生に気に入られたりして。

ただただ、「空気だけが読める子ども」だったように思います。

 

当時はそれが、「普通のこと」だと思っていましたが。

 

結局大人になって気がついたのは。

自分以外の人の顔色ばかり気にして、自分が無くなってしまっていたのです。

 

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自分の好きなものを「好き」と言えなくなっていたし。

「お願い」って人に頼ることもできなくなっていたし。

 

全部、相手が気持ちよく過ごせるように、自分の気持ちを押し殺していました。

 

     人に優しくすること

        は

     自分を出さないこと

 

そうやってしか、人と関われなくなっていました。

 

でも、結局のところは。

実際に私が「自分を出さないこと」で。

得をしたり。

私が「自分を出すこと」で。

へそを曲げたり。

無視したり。

「恥をかいた。」と嫌味を言ってくるのは。

他のだれでもなく、母だけだったのです。

 

母にとって、私が「都合良く操れる存在」で居続けることは、母にとって何の疑問も何の後悔もない当たり前のことだったようです。

決して意図的でなく、「無意識にコントロールする」ことでしか、子育てができない母だったのだと思います。

 

 

母は、そんな私に容赦なく寂しい言葉を浴びせました。

 

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母に育くまれた性質を、小さな頃から母に否定され続けました。

身動きが取れなくなりました。

「空気を読まなくてはならない」という強迫観念に近い思いは、社会人になっても自覚には至らず。

ずっと「生きづらさ」としてだけ感じていました。

 

そんな時に、のんびりとしたぞうさんのようなおおらかなパパ に出会い。

結婚したのです。

 

大人になって結婚しても、私が40歳をむかえようとするつい数年前まで。

私の大切な新しい家族のことまでにも、愚痴や悪口を言い続けてくる母でした。

 

母も自分の母親にそう育てられたのでしょうし。

母は私にそうすることしかできなかったのだと思いますし。

いつまでも私が母を思い、母だけに頼って、感謝し続けて欲しかったのかもしれませんが。

 

 

母とのことで身動きが取れなくなった私が泣いている姿を、子どもたちに見せてしまう日々が続いてしまった時に。

ぼんが、ティッシュを持ってきたり。

「大丈夫?」って言葉をかけてきたり。

泣いている理由を知らないのに、ぼんが空気を読んで動いていた時に、私ははっとしました。

 

これは違う。

はっきりと思えました。

 

よく母に言われた「親になったら私の気持ちがわかる!(怒)」。

親になって、自分が子育てをする中で。

「母への違和感」だけが浮き上がってしまったのは、皮肉なことです。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・

 

 

長くなりましたが。

 

ちょっと前に、私がぼんを叱っている姿を見て、ちいたんが反射的に?自分から動いた時に。

ちいたんの視野の広がりを感じるとともに。

ざわざわと、この苦い記憶が湧いてきてしまったのです。

 

だから整理したいのです。

 

私は、「空気が読める」か「空気が読めない」のかを軸に考えてしまうと。

 

「自分の気持ちを抑えられる」か「抑えられないのか」ということに焦点が当たってしまうのです。

 

そう思うと、やっぱり本質はそこにはなくて。

 

 

 

 

 

大切なことは。

まずは、ちいたんの毎日が楽しくて。

「自分には大切な人がいるんだ。」と、ちいたんが実感できること。

 

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そして、そんな毎日の中で。

 

大切な人の気持ちを無視して、自分の気持ちばかりを通さず。

 

かといって。

自分の気持ちを抑えて、相手の気持ちを通すのでもなく。

 

「どうしようか?」って。

ちゃんと大切な人と一緒に考えること。

 

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そういう毎日を重ねていくことが大切なんだと思います。

 

 

 

だから、結局は。

ちいたんだけじゃなくて、ぼんにもパパにも私にとっても。

 

「家族があたたかい毎日を過ごすこと」が。

まずは何よりも大事なんだと思います。

 

 

 

当たり前のことかもしれないけど。

ここまで強烈に。

「家族があたたかい毎日を過ごすこと」に、ものすごいパワーがあると気付けたのは、ねじれまがって母のおかげでもあるし。

 

そして。

「家族には決してあいさつはしない。」というねじまがった価値観で育った私に。

あたたかさの始まりである、

「おはよう。」

「ありがとう。」

あいさつの大切さを教えてくれたのは、ぞうさんみたいなパパです。

 

ラッキーです(笑)。

本能が求めたのだと思います。

 

今のしあわせに感謝して。

 

この思いを成仏させていきたいです。