プラス思考と引きずる力。③
☆ちいたん:小3自閉症スペクトラム男子
通常学級で学んでいます。
☆ ぼん :小6兄
私なりに精一杯プラスに考えてみます。
先生のスタイルを時代別に考えてみようと思います。
①教師至上型
(昭和スタイル)
私も昭和の時代の小学生でしたので、「教師の言うことは絶対に正しい。」という価値観の中で育ちました。
理不尽なことを受け入れたり、その理不尽さを親に伝えると更に親に叱られるような時代でしたので、子どもは従うことだけを求められました。
そして、その時代の精神を今の時代にまで持ち込んでいる先生がまだまだいらっしゃいます。
このスタイルの先生は。
「子どもは教師に従うもの!」
「一度言ってできてなければ努力不足!」
「気持ちがあればできる!」
とても短絡的な考え方ですが。
子どもは「十把一絡げ」という感覚で、トラブルの対応は子どもの発達段階の話に頼りがちです。
「ギャングエイジ」とか「反抗期」とか「揉まれて成長する」とか、そういう古めの教育用語でトラブルを片付けます。
昔と違うのは、今の時代はこういう先生は少ないので、子どもも他の先生の対応との違いをすぐに感じ取ります。
このスタイルの先生からは、子ども自身が認められることがないので。
見るからに子どもの元気がなくなって。
子どもが死んだ目をしながら不平を訴えてきます。
今の子どもは自分で反発することもありますが、残念ながら、このスタイルの先生には何を求めても通じません。
教師であるのに、今の時代に合った新しい教育方法を全く学ばないということなんて、逆に今の時代に可能なことなのか・・?と思いますが。
先生が、ご自身の育ってきた環境に疑問を抱く瞬間がなければ、このような方法を否定する瞬間もないわけで。
先生ご自身が子ども時代に「できる子」として先生に寵愛されてきた経緯があれば、その教師の姿は「子どもを正しく導く善意の教師像」としてより強化され、結果的に今の時代にもその精神が持ち込まれているのかもしれません。
②承認欲求強め教師中心型
(平成スタイル)
平成の時代は、昭和からの課題が浮き上がり、新しい方法が模索された時代です。
総合的な学習の時間
生きる力
特別支援教育平成19年からスタート
確かな学力
アクティブ・ラーニング
英語教科化
プログラミング教育
道徳教科化
2020教育改革への移行期間
インクルーシブ教育
簡単に思い出すだけでも、こんなにも多くの課題がありました。
常に議論され続けて今も紆余曲折が続いています。
文科省からおりてくる方法や成果の判断が定期的に流動していて、先生ご自身も迷い、模索しているのかもしれません。
先生は、大変なお仕事だと思います。
そんな中にあって。
子どもたちの教育と並行して。
ご自身のやり方が周囲に認められることにも意識が置かれていて。
子どもを中心に置くことができないのかもしれません。
できる子をご自身の指導の成果として讃えることはできても、困難がある子の対応には手が回りません。
小さなステップを用意してくれることもなく、体育の課題などは「できなくてもいい。」と言って指導すらされません。
そんな子どもは褒められることも叱られることもない、間違えていても丸が付いているような「ノーチェック状態」なので。
子どもの文字はどんどん汚くなったり。
生活もだらしなくなり。
子ども同士のトラブルも増えます。
子どもが充実感を感じられないのでしょう。
先生は新しい価値観や一般論や理想論を保護者に語ることによって、ご自身に言い聞かせながら教育されているような印象です。
できる子の保護者からは評価されるものの、困難がある子の保護者からは子どもが荒れるのでもちろん意見があがります。
すると、更なる保護者の承認を求めて、「保護者ウケ」を意識した保護者の感動や見映えが重視された教育活動が多くなるのかもしれません。
先生も子どもも保護者も、みんなが振り回された時代と言えるのかもしれません。
③子ども中心型
(これからの希望を込めた令和スタイル)
ちいたんの幼稚園の年長の先生(最初の方ではありません)。
ぼんの小2の担任の先生=ちいたんの小1の担任の先生(同じ先生です)。
ぼん小4の産休に入ってしまった先生。
ちいたんの小2の担任の先生。
この先生方に担任してもらった時、ぼんとちいたんはとても生き生きと毎日過ごすことができました。(ちいたんは現在進行形です。)
この先生方に共通したことは。
「忙しい」「大変」と言われている今の教育の世界にあっても。
どんな子どもでも丸ごと受け止めることが常に先生のベースにあることです。
ぼんやちいたんのような子であっても、必ずクラスの一員として巻き込んで。
ひとりひとりの良さを見つけて。
それぞれの子どもが「自ら学ぶ」、そのきっかけやタイミングを見極めてくださっているように思います。
親だと心配で任せられないようなことを、ドンと子どもに任せてくださったり。
子どもも任されたことに責任をもってやり遂げる。
そういう経験によって先生との信頼関係や、人を信じる気持ちを子どもが学ぶように思います。
日々小さな充実感を味わえる先生が担任になると。
子どもは自分が好きになって。
相手の良さに目を向けることにもつながって。
お互いに尊重し合うことで、トラブルが激減します。
ぼんが小2の時に「ぼんは今、自分のこと好きなんだよ。」って言った時を思い出します。
自分が認められる喜びです。
絶対に、目の前の子どもたちから目をそらさない。
そんなところにプロフェッショナルなまなざしを感じます。
かといって、今必要となっている教育の課題に目を向けていらっしゃらないわけではなく。
例えば、ちいたんの特別支援について。
難しい場面があったときに、先生から保護者の私に「こんな時、どうしたら良いでしょうか。教えてください。」と聞いてくださいます。
教師だからといって、いつも上から親に諭したりせずに。
「ちいたんのために」という確固たる目的の前にあって。
ちいたんが自ら学ぶために必要な情報を得るために動き、ご自身の指導の方法を振り返る作業を幾度となく繰り返す。
その姿勢にこそ、教師がプロフェッショナルたる所以を感じさせられました。
幼稚園の年長の先生は療育先に見学に来て、ちいたんについて知ろうとしてくださったこともありました。
そして、 先生と親が相互に情報を交換し合えると、先生と親の信頼関係も深まります。
ちいたんのような子の場合、先生にお願いすることがどうしても多くなります。
幼稚園の最初の例の担任の先生は、「大丈夫です~。」と言って何もしてくださらないので、こちらからちいたんの支援をお願いすることもありました。
すると、先生は「指導が足りないことを指摘された。」と感じてしまう様子で、「すみません・・・。」と暗い表情で答えられるだけで。
お願いすればするほど、ただただ距離ができるだけでした。
子どもを中心において、先生と保護者が「改善が必要なこと」を共有できるかできないかは、失礼ではありますが、先生の資質が大きく関係するのと。
保護者も悪い時ばかり報告したりお願いせずに、うまくできるようになったことなど「先生の指導によって良く変化したこと」を意識して伝えていくことも大切だと感じます。
模索の平成の時代が終わったので。
令和の時代はきっともっと本質に目が向けられるようになるはず?
教育はもう、なってもらわないと困りますし。
落ち着いた令和スタイルの先生が増えていくことを願うばかりですが。
PISA型学力の低下を受けて、すでに大学入学共通テストの2本の柱が頓挫しているので・・・まだまだ令和も模索が続きそうで怖いです。
文科省の方々も色々真剣に考えてくださっていると思いますが。
シンプルに。
先生が落ち着いて子どもに向き合える環境をなんとか整えて欲しいです。
勝手に時代のせいにして考えてみましたが。
意外と先生個人に対する「煮えくりかえって煮えたぎる」ような思いが「煮える」くらいに軽減します。
できる限りプラスに判断して、未来に希望を持っていきたい思いです。
でも、もう少し引きずります・・(笑)。