プラス思考と引きずる力。②
☆ちいたん:小3自閉症スペクトラム男子
通常学級で学んでいます。
☆ ぼん :小6兄
教師になる方は、少なくとも今の疲弊した教育の世界に夢が抱ける方。
そう思うと。
ご自身が子どもだった時代に苦い経験をしていない方が、新卒からそのまま教師になっている方も多いのかも・・。
ぼんの1年生の担任を見ていると。
困難がある子は単純に「努力不足」という考えに直結しがちで。
子どもの個々の課題を見つめたり、ご自身の指導方法を振り返ることには絶対に繋がらない感がありました。
現代の教師とあろう方が、あそこまで短絡的なことには、何か遠因があるのでは・・?
また。
先生ご自身の夢の実現や理想の教育像の方が、目の前の子どもの成長より優先されているのでは・・と感じることは、他の先生の時も何度もありました。
これまでそういった違和感を感じることがあったのは。
ぼんとちいたんの先生合わせて幼稚園から含めたら12人中の5人の方々。
約4割の確率って、やっぱり多いと思うのです。
(習い事を含めたらもっと・・?)
振り返ってみると。
まず、この人だけは生涯忘れることはない(笑)。
ちいたんの2年保育の最初の担任の先生、30代女性。
「ちいたんは自閉症スペクトラムで、みんなと同じようにできないこともあるから、何でも家でできることは練習しますから言ってくださいね。」ってあらかじめ伝えておいて。
時々「ちいたんは大丈夫かしら?」って先生に聞くのだけど。
一年間いつもきまって「大丈夫ですよ~。」としか言ってくれなかった先生。
そして、お遊戯会。
みんながピタっと揃えて決めるところで、ダンスが必ずズレちゃうちいたんのこと・・私に何の相談もなく本番でした・・。
「大丈夫です~。」って「できてます。」って意味じゃないのかしら?
「ちいたんは大丈夫。」ってことじゃなく「私は大丈夫。」ってこと?
その上。
最後の保護者会で「足並みが揃わなくて一年間とっても大変でしたけどがんばりました(涙)。」って先生がわんわん泣く・・・。
ただの「私がんばったでしょ!」アピール先生でした。
ちいたんの足並みが揃わないことを話すべき相手は・・私でしょ?
ちいたんを先生の感動の材料のために利用しないで欲しいです。
でも、意外とこういう先生の話聞いてもらい泣きしている保護者の方もいたり?
先生が励まされたりしていたりして?
・・すごくゾワゾワしてモヤモヤしました。
順不同ですが。
次は、ぼん小4の時。
工作の作品が作品展に出品されることになったのはよかったのだけど。
ぼんに断りなく作品の表情を勝手に作り替えても、子どもの気持ちを無視していることに気づけない、産休代替の年配の女性の先生。
どう理解したらこれが「反抗期の入口」になるのか・・?
思いを込めて作った自分の作品は、自分の分身のようなもの。
自分を勝手に作り替えられる気持ちがわからないとは・・。
そんなことされたら誰だって反発するでしょ?
未熟な子どもに対しては、大人が勝手に何をしても良いというのかしら?
最終的に仕方なく元に戻す・・。
もうモヤモヤしすぎて。
担任に通じないから教頭先生に相談したら。
「作品をもっと良くしたいという指導の一貫だったと思うのですけどね。」・・・?
・・・先生がアドバイスして、ぼんが理解してぼん自身が取り組むなら分かるけど。
先生がひとりで勝手に作り替えたら・・・それは指導じゃないでしょ?
年配の先生には教頭先生も何も言えないのかしら?
やりたい放題なの?
そして次は。
次週の予定をA4のおたよりで伝える先生はたまにいらっしゃるけれど。
ぼん小3の時の30代の男性の先生は。
毎週B4表裏のおたよりで、教育への思いの丈をぶちまける先生でした。
いろいろためになること伝えたい感じはするのだけど、いつも小3の目の前の小さな子どもたちのことに繋がっていないのです。
話の内容は伝わらないけれど、とにかく日々熱いので、テンションだけを合わせていかなくてはならず、小3ぼんは困惑気味。
教育への大いなる思いがあるのは素晴らしいのだけど、ぼんは日々の小さな充実感を感じることができずにいました。
おたよりが多いことで一見教育熱心な風に感じますが、子どもの日常の肝心なことには無頓着で。
何かと「ノーチェック状態」が続きました。
例えば、漢字は間違えていても丸がついているのは常だし。
他にも、「図工の材料で牛乳パックを持たせてください。」って言うから名前を書かせて持たせると。
なぜか先生が全員で適当に共有保管させて、「誰かに使われちゃったからまた明日持っていかなくちゃならないんだけど・・。」とか?
先生自ら、人の材料勝手に奪えちゃう状況作ってクラスの余計なトラブル誘発してるのに、そこで子どもたちがギクシャクしたことをまたネタにおたよりを書くとか?
壮大な教育論のネタ探ししてないで、子どもの小さな日常にもっと目を向けて欲しかったです。
最後は。
ちいたん小1の頃の特別支援コーディネーターの40代くらい女性の先生。
校内の先生が担当していて、日頃ちいたんに全く関わりのない方。
他のクラスの担任ももっているので、もう笑えるくらい適当な対応です。
相談するとだいたい。
「ほかの子もできないから。」とか。
「ちいたんだけじゃないから。」とか。
「できなくても死なないから。」とか。(言い方おかしいし。)
また、特別支援コーディネーターでありながら、ちいたんの日常を全く見てないから、一般的な自閉症スペクトラムの特性で語るしかない様子で。
ちいたんに全く当てはまらないことでスラスラ話をまとめようとするので。
「えっ??これ誰の話ですか?!」ってこちらが問い正すくらいの不毛さです。
「特別支援」という視点から見てくれず。
他の子と同じ視点から見たらそうかもしれないし、集団の中で学ぶ教育の理想論があるのもわかるけど。
じゃあ、何のための特別支援教育なのか・・本末転倒なんです。
その先生と話すの面倒くさいです。
でも、1年生の時に何度か続いたいじめの後のやりとりをきっかけに。
私から「計画的、継続的。」のキーワードを出して、個別の支援計画を立ててもらう流れを作ることができました。
就学相談からいろいろ相談してきて。
教育委員会から出た支援級判定を、その先生が「ちいたんは通常級でやってみては。」と促した経緯もあるのに。
トラブルが起きるまで?
こちらからお願いするまで?
3学期まで?
個別の支援計画の話を持ち出さない特別支援コーディネーターって、役割としてちゃんと機能してるのかしら?
ただ配置だけして、特別支援やってますアピール?
振り返ってみても、この一連の不毛なやりとり。
ぼんを見習って。
とにかく、精一杯プラスに考えてみます。
まだ続きます・・。
引きずります。